泣き言を晒すのは好きではありませんし、終わってしまったことを嘆いても元には戻らないのは承知ですが、かつて付き合っていた彼女??が亡くなりました。
精神病を罹っていた彼女は、薬の副作用と、自身の気持ちの疲れが体を直撃していた様でしたが、付き合い始めてから一時は快方に向かって喜んだのも束の間、2年前を境に次第に体調を悪化させていました。
正直な処、私では手に負えない程の病状の悪化に「彼女はこの先5年や10年も生きられないな…」と内心覚悟していました。
平成28年3月1日夕方に彼女の母からのメールに気づいた瞬間、本文を見なくても「とうとう亡くなった」と気づきました。
その時初めて「人は死んだらどうなるのだろう?」「死ぬ間際に私のことを思い出してくれていたのだろう?」と、栄バスターミナルで真剣に考えました。
その直後、生前に精神の病からか不満からか【死にたい死にたい】と繰り返し言っていた彼女にロクな答えを返さないでいたことを思い出しました。私から言いたいことや伝えたいことは山程あるものの、上手く言葉に出来ず、彼女からはテキトーとも取れる言葉しか返せなかったので、必死に呆然と答えを考えたら、初めて今は亡き彼女へのメッセージが初めて見つかりました。
【どんな人でも、その人の記憶こそが唯一無比の財産】
どれだけ偉い人でもお金持ちでも、その人の周り(豪邸・車等高価な所持品や、名声・肩書き等)が充実しているだけであって、本当の価値は【生きている人の記憶】にこそあり、私の様な職定まらず・弁護士・国会議員・給食のおばちゃん・作業員・ルンペン…そして精神病院で10年近く入院していた彼女も、皆等しく価値は無限大と判りました。彼女が嫉妬していた結婚して幸せな同級生も同じです。
自分で自分を【役立たず】と責めて【死にたい死にたい】を繰り返していた彼女に【貴女が死んだら、今までの貴重な記憶は誰にも伝えられないのです】と言ってあげられたのなら、もしかしたら、もう少し長く頑張れたのかも知れません。
当たり前ですが今でも後悔ばかり繰り返し、時間は逆戻り出来ない事を判っていながらも【あの時こうしておけば良かった】と1日に何回もゞ振り返っています。死の悲しみは希薄させることでしか癒えません。
「私なんか誰からも必要とされていない!」と繰り返す彼女に向かって「神様を信じなさい・教会に行きなされ」と言っておきながら、自分自身ここ6年位教会での礼拝をしていない事に気づき、神様にすがるきもちで再開しました。
この様な辛い気持ちを聞いてくれる友人はいるのですが、いくら嘆いても終わりが無い、自分でどうしようも出来ないことは神に託すしか手段が無いと実感し、今更ながら通っています。
ありきたりですが、今を生きている私達は、今現在関わっている人に対して少しでも心に余裕を持って親身に気をかけないと【もしもの時】に後悔をする事になります。
例えば、つまらない電話の一本や、メールの一通が相手にとってどれだけ喜ばれる事が計り知れません。電話やメールが大嫌いだった私が思い知らされました。
個人的な嘆きですが、気持ちを整理したいので書きました。
読んで戴いた方に感謝します。
亡くなった彼女へ、安らかなお眠りをお祈り申し上げます。